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NO. 1 4 3   菊池 寛 「 恩讐の彼方に 」 バイク 日本全国一人旅 5

「 青の洞門 」 4月10日 ( 1750 )一部開通する。

(耶馬日田英彦山 やばひたひこさん国定公園 )

またまた、40年ほど前になりますことを お許し願うとしまして、

若かりし頃 バイクで旅行ばかりしていて、おとずれた九州大分県 耶馬溪( やばけい )にある、「 青の洞門 」と 呼ばれる トンネルの話です。

1720年頃 禅海和尚がこの地を訪れたとき、村人や修行僧が断崖絶壁に張られた鎖につかまって通って 何人もの人が 命を落としている 大変危険な道を 目の当たりにして、托鉢(たくはつ)で 浄財を集め、ノミと槌だけで 144mのトンネルを 30年かけて掘り抜いた。完成当時は「 樋田の刳り抜き 」(ひたのくりぬき)、大正の頃「 青の洞門 」と呼ばれ、この隧道のおかげで 大勢のいのちがすくわれた。

菊池 寛氏が この話をもとに 書き上げたのが「 恩讐の彼方に 」である。(T.8 1919)

== 江戸時代 主人である旗本 中川三郎兵衛(さぶろべえ)を斬ってしまった 市九郎は 逃走し、表稼業は 茶屋で、裏稼業は 人切り強盗をしていた。しかし 回心し、出家して 了海と名乗り、全国行脚に出かけ、豊前の国(ぶぜん 福岡県中津あたり)に来たとき、大変危険な 断崖絶壁の鎖の道で 大勢の人が 命を落としているのを聞いて、隧道(トンネル)を通そうと、のみとつちだけで掘りた。

一方、斬られた三郎兵衛の息子 実之助は、19歳で仇討の旅に出て、27歳で了海を探し当て 本懐を遂げようとするが、隧道が開通するまで待つことにし、自分も一緒に掘るのを手伝った。

そして 1年半後 ついに掘り抜いた。

約束どうり 了海=市九郎は 仇をうて と 言うが、市九郎の言動に心を打たれた実之助は号泣し、仇討の心を捨てるのであった。 

==仇討の話は 実話ではなく、菊地 寛氏の 創作である。

.....と言うことで、歴史を踏まえ エピソードなどを知ったうえで この地を訪れると、ひとしお 感慨深いもんがありますね。

ちなみに、この「 樋田の 刳り抜き ひたのくりぬき 」=「 青の洞門 」は、その後の工事費を賄うために、通行料をいただいたので、たぶん我が国初の「 有料道路 」ではないだろうか、とも言われているが・・・。

=== 写真(PCより)3枚===

(上)青の洞門 旧道

(中)青の洞門 現代

(下)青の洞門 明治の頃か?


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