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NO. Ⅰ4 7  紫色の シクラメン ほど・・・


私は サラりーマン 35歳。御堂筋にある 大阪本社に勤める。

ある日、東京郊外の得意先へ 3日間の出張。 

二日目は 日曜日だが、午後からの商談。

朝食はいつも トースト&熱いコーヒー。 

ビジネスホテルを9時に出て ひと気の少ない喫茶店へ。

椿のいけ垣が腰まであり、5月のこぬか雨にその愛らしいピンクの花が しっとりと ひとしずくを落とすと、まるで 私に「お入りなさいよ」と いわんばかりに 首を縦に振っている。 その 屋根つきのウッドデッキがある喫茶店へ引かれ 店内がよく見える一枚の板ガラスドアを押した。

鉢植えの「紫のシクラメン」で三方をぐるりとかこまれたウッドデッキと 椿のいけ垣と その向こうの 欅の新緑がよく見える席をえらび 熱いコーヒーの香りを 鼻腔へと送り込んだ。

デッキの屋根のひさしから ゆっくり同じ間隔で落ちるしずく。そのしずくが奏でるトレモロを 聞いているのだろうか、そのデッキには、肩ぐらいの長さの髪 淡い紫のリボンで束ねたポニーテールを さわやかな5月の微風が揺らし、かろやかな 淡いピンクの 薄手のロングコートを、腕を通さずに羽織った女性が 物憂げな目で、こぬか雨降るライトグレーの空を まばたき少なく 人待ち顔でじっと見つめている。

テーブルのコーヒーは 一口も飲まず すでにゆげももうすっかり無くなっているようだ。

やがて 25歳くらいのライトブルーのスーツをぴちっと着こなした若者が、椿のいけ垣を入ってきた。 小雨とはいえ、濡れるがままに早足で 一段高いウッドデッキに上がり、彼女の横の椅子の背もたれを引いた。 七三に分けた清潔感のある髪に 小粒の雨がきらりと光っている。

彼女は3歳ぐらい年下にみえる。この4月に就職したばかりの雰囲気。ウエイターの運んできたこーひーを 若者は そっと彼女の冷めたコーヒーと交換し、香りも少なくなったであろう湯気のないコーヒを一口飲んで、皿にカップを置き カップに目をやったままで 伏し目がちに、ぽつりと一言つぶやいたようで むろん 店内の私には 聞こえない。彼女は眼を閉じてしまった。時間ばかりが 二人をおきざりにしてゆく。

私は と いえば トーストも食べ終わり、二人が気にならないようで気になり、二杯目の熱いコーヒーを 

時が どれくらい経ったであろうか やがて 二人は一度も微笑みかわすことなく、一度も目を合わせることなく、そして 彼女は 淡いピンクの薄手のコートを、そよ風に揺らせながら、振り返えらずに 呼びとめはしない若者を残して 濡れることも気にせず こぬか雨の中へと立ち去った。

コーヒーは またも冷めてしまったなあ。

雨は すこし強くなっている。「やらずの雨」であってくれたら、二人は何かを解きほぐして 別れることは無かったかもしれない・・・・そんなことを思いながら 約束の時間までの空間を、三杯目のコーヒーで 埋めることにした。

うす紫の シクラメンほど

淋しい  ものはない

後姿の  君の様です

暮れまどう  街の

分かれ道には

シクラメンのかほり

むなしく 揺れて

季節が 知らん顔して

過ぎてゆきました

疲れを知らない

子供のように

時が 二人を

追い越してゆく

呼び戻すことが

できるなら

僕はなにを

惜しむだろう

(小椋 佳 の世界)


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